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建築人・徳岡昌克(建築人2020年3月号掲載)

建築人2020年3月号

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「徳岡昌克さんを偲ぶ」 淵上正幸

愛知県の「稲沢市荻須記念美術館」の正面アプローチに立つと、端正なファサードに向けての直線的なパースペクティプに、両サイドからの緑がバランスよく顔をだし、エントランス周りの風格ある雰囲気がより高まり、襟を正して入館せざるを得ないような気分になってくる。それは今を去る四〇年ほど前の遥かな記憶で、僕が初めて徳岡昌克さんにお会いしたのは、この格調ある荻須高徳画伯の記念館であった。

当時僕は雑誌『新建築』の編集部員で、徳岡さんのこの作品を担当した記憶
がある。何分にもかなり前のことなので、記憶は定かではない。これは徳岡さんがまだ竹中工務店に在職されていた時の、応募作品が四四一件もあった公開コンペに勝利したものである。この建物はBCS賞を受賞しており、『新建築』の一九八三年一〇月号に発表された。徳岡さんはちょうどこの年に竹中工務店を辞職され、徳岡昌克建築設計事務所を創設された。

その後僕は一九八九年八月いっぱいで新建築社から独立して編集事務所を設立し、個人的には建築ジャーナリストとして活動するようになった。僕の事務所は一九九〇年代に入って「コンペ&コンテスト』(TOTO出版)の編集を任され、また書籍の編集もし、個人的には連載執筆やインタビュー、海外建築ツアーなどを始めて忙しくなってきた。やがていつ頃だったか忘れたが、徳岡さんから連絡があり、相談したいことがあるというので、初めて尼崎の事務所に伺った。

徳岡さんは竹中工務店在職当時から設計コンペに強く、その実力は竹中工務店から独立してからは更なる強さを発揮して、関西エリアでは飛ぶ烏を落とす勢い。それらは規模が大きい美術館や博物館といった公共建築が多く、かなり多忙であったことが想像された。そして事務所の作品もたまりだしてきた。僕が呼ばれたのはそうした時期であった。

僕は徳岡さんの八面六腎の活動から、徳岡事務所は新しい先端的なデザインのものかなという勝手な想像をもって伺うと、思いのほか控え目な事務所で派手で人目につきやすいような事務所ではなかった。一九三〇年生まれの徳岡さんは当時六五、六歳ではなかったか。例の温厚なにこやかな笑い顔で迎えてくれた。その時伺ったのは、自分の作品がたまってきたので作品集を出したいということであった。ただ単なる作品集ではなく、自分の回顧録的なものも含んだ一冊にしたいということであった。その時は徳岡さんの履歴や活動歴のアウトラインを伺ったりしたが、その内容の広さ・深さに罵き、これは大変な中身の本になると感じた。

実際に編集作業が始まると、まずどのような形式の本にするかが問題だった。普通だと誰かが資料を見ながら徳岡さんについての記事を書く。あるいは誰かが徳岡さんにインタビューをするということになる。ところが徳岡さんの提案がユニークだった。徳岡さんは誰かにインタビューされると、硬くなってうまく言えないので、親子対談にしようということを提案された。これは面白いと思った。徳岡さんには三人の子供があり、上の二人が男の子で一番下が女の子。長男の聡一さんは徳岡工務店の代表だし、次男の浩二さんは徳岡設計事務所の副所長。下の郁子さんは山村流の舞踏家であり、皆さん要職についている。徳岡さんは自分の過去における成功談、失敗談などを交えた対談で、子供たちへ自分の人生訓を、さりげなく伝えたかったのだろうと思った。

さてその親子対談だが、僕は徳岡事務所の会議室のようなところでやるものと思っていたら、徳岡さんは自分の別荘でやろうという。「湖西荘」という琵琶湖の西岸にあるウィークエンド・ハウスに泊まり掛けで来て欲しいといわれた。そこでみんなで食事をして楽しくやろうというのが、徳岡さんの意図であった。テニスコートもあると言われては行かざるを得ないというよりは、喜び勇んで行きます、ということになった。

「湖西荘」は楽しかった!琵琶湖の景色は素睛らしいし、植物好きの徳岡さんの趣味である果実栽培の果樹園も近くにあった。曰く、びわ、栗、柿、りんご、ぶどう、キウイ、桃、梨。徳岡さんは樹木については非常に詳しく、いろいろ案内して説明してくれたが、樹木の名前は覚えられない。「湖西荘」の敷地にも樹木が多かったが、大きなケヤキがあったような気がする。テニスは浩二さんとやった記憶がある。徳岡さんはここに竹中時代の仲間を大勢呼んでパーティをかなりやって親睦を深めていたらしい。

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メインの親子対談は休息を入れつつ長時間に渡ったが、徳岡さんは少年時代から→大学→竹中時代→アメリカ時代→竹中時代→徳岡事務所時代と、記憶がすごくて次から次へといろいろな話が出てきた。これが余りにも多いので僕もびっくりしたと同時に、本にした時これらの話に出てきた建築や人物などのカット写真はどうするのかと、先走った考えが脳裏をよぎった。後日この件で話した時に、徳岡さんは任せてください大丈夫ですと太鼓判。実際にほとんどの写真やスケッチなどがしっかり出てきて、内心ル・コルビュジエのような人だと思った。

「湖西荘」の思い出は、僕の仕事体験の中では飛び抜けた楽しい印象を残してくれたものだった。徳岡さんからは家族同様の扱いをしていただき、僕は仕事で伺ったにも関わらず伸び伸びとして親子対談や飲食、そして散歩などを楽しんでしまった。徳岡さんは人を楽しませる術に長けていると、「湖西荘」での滞在でわかった。ここでの一泊二日の仕事のやり方は、出版を頼んだ人と、それを引き受けた人が、単にクライアントと編集者という関係を越えて友人的関係になり、それをベースにして組み上がった仕事になったことで、実務的には大変な内容をもつ書籍ながら、その後の進行がスムースなったことは歪めない。

徳岡さんが名付けた『生き様のデザイン』は、メインの「親子対談」の前に三つの論文を書かれている。「建築とは何か」「私が建築創りに考えること」「都市の景観ーーみどり・道・広場」の三編は、徳岡さんの建築設計のベースを構成する理念が書かれている。「親子対談」の後には代表的な二六作品が掲載されている。公共建築が多く、いかにコンペに強いかが一目瞭然である。それはその建物のニーズに答えると同時に、地域のアーバン・コンテクストにフィトした作品であるからであろう。

徳岡さんの話で特に僕が面白かったのは、アメリカ時代の話だ。就職のためミノル・ヤマサキの事務所を振り出しに、いろいろな事務所の訪問遍歴が而白かった。ヤマサキ事務所の後シカゴに行き、ミース・ファン・デル・ローエ事務所、SOM、C.Fマーフィーなどの著名事務所の訪問遍歴をしたようだ。ミースは高齢で週に一〜二回しか事務所に来ないから止めたとか。SOMは見せたボートフォリオの徳岡作品が気に入られなかったからとか。結局C.Fマーフィー事務所に洛ち辛叩いたが、そこにミースの高弟でニューヨークの「シーグラム・ビル」を担当したジーン・サマーズがいた。そこに学生のヘルムート・ヤーンがバイトに来ていたとか。僕はこれらの事務所のうち、ミース事務所以外とは全てコンタクトをして資料を借りて『アメリカ建築案内二」に出したことがある。そういう訳で出版後でも、徳岡さんとアメリカ時代の話をすると、話がはずんで長くなった記憶がある。

徳岡さんとの付き合いは、書籍の出版だけではなかった。その後もよく電話をいただいた。最初は本の売れ行きとか、本に関する話が多かったが、だんだん今どんな建築を設計しているとか、『新建築』に面白い建築が出ているとか。そうした友達的な関係が続きだした。徳岡さんのそうしたワイドな付き合い方は、「親子対談」にも登場した息子さんである聡一さんや浩二さんにも引き継がれている気がする。

聡一さんは僕の「ロンドン・オリンピック&ケンプリッジ建築探検ツアー」に息子さんをつれて参加され、その後の東京での同窓会には、わざわざ大阪から参加していただいた。大阪では浩二さんの企画で僕のはじめての公開講演会「ヨーロッバ現代建築を解く」(主催:大阪府建築士会/企画:国際委員会)を開催させていただいた。そのような付き合いは、徳岡さんが遺してくれた貴重な財産である。僕は自費出版の本を編集しただけで、かくも親しく長く続くお付き合いをさせていただいているのは、非常にありがたく珍しいと思っている。今でもご両名とはメールのやり取りは続いている。

懐かしい徳岡さんへの思慕と、楽しかった「湖西荘」への憧憬の念が、今僕の心を揺るがしている。いつの日か「湖西荘」の庭を散歩し、そこでにこやかな徳岡昌克さんに会いたいと思っている。

徳岡昌克と建築作品

建築家・徳岡昌克氏の長年にわたる設計活動において転機となった作品について、ご子息の建築家・徳岡浩二氏に紹介いただいた。

■関西大学幼稚園(一九六四年)
竹中在籍時、父が設計を生涯やっていく契機になった作品です。屋根が特徴的な建物で親烏がひな鳥(園児)を翼を広げて優しく抱いているような形をイメージしています。当時、新建築の編集長をされていた馬場璋造さんがこの建物の前を通りかかり、村野藤吾さんの設計だと勘違いされたということです。それをきっかけに馬場さんと父が出会い、新建築にも掲載されました。

この作品の翌年、竹中を休職してワシントン、シカゴの設計事務所で働くことになりました。青春時代に戦争で負け、日本を負かすほどの技術をもったアメリカで学んでみたいという願望があったようです。一方で、文化的な面では日本は負けていないという自負を持っていたようです。向こうの技術を使い、日本の文化をさらに発展させたいという想いが芽生えたのではないでしょうか。

■沖縄市民会館(一九八〇年)
一九七七年、竹中の九州支店の設計部長で赴任した時は、九州支店の営業成績が厳しい状況でした。その中でコンペで活路を見出したのがこの作品です。当時、竹中では文化ホールに力をいれていました。非常によくできているということで、その後の沖縄の文化ホールはこの建物を原型にして計画されました。

■稲沢市荻須記念美術館(一九八三年)
こちらも竹中在籍時にコンペで勝ち取った作品です。日本のコンペの中でも歴史に残る激戦のコンペでした。沖縄もそうでしたが、施工は竹中ではありません。小さな美術館なので仕事としては採算が合わなくても、設計で取った仕事は設計でやるというのが竹中のスタンスでした。新聞に竹中工務店の名前が出て十分宣伝効果があるからということで当時の社長が励ましてくれたということです。

■ぼんちあられ神戸工場(一九八四年)
この工場が独立後の初めての作品になります。竹中を退職したその日に設計の依頼をされたということです。汚れにくく、掃除もしやすいということで、内外共にイソバンド仕上げとしています。ぼんち揚げが日本のお菓子ということもあり、現代の材料を使って日本の郷愁や日本の色を表現しました。事務所が軌道に乗るきっかけとなった作品です

■志賀町民センター(一九八八年)
この建物は現在の大津市にあり、出身が滋賀県ということもあってとても思い入れが強く、山並みと調和するような建物の在り方を追求しています。また、一九九五年に竣工した、木戸デイサービスセンターも志賀町(現大津市)にありますが、まちなみに馴染むように建物を三つに割って、色斑のある屋根瓦を特注しました。庭の池と浴場の水面の高さを合わせ、琵琶湖で泳いだ原風景を思い出してもらえるようにしています。

■ 田川市文化エリア(一九九一年)
こちらは田川市という炭鉱で有名な街の美術館です。炭鉱が廃鉱になって地域産業が衰退している中で、文化で地域を元気にしたいという市の要望でした。美術館を作り、既存の図書館を増改築して、全体の景観として馴染ませながらカフェを作り、憩いの場所として回遊できるような環境づくりをしています。みんなが集まって文化的なことができる場所という意味で、「田川市文化エリア」と名付けられています。

■小磯記念美術館(一九九二年)
小磯良平さんの美術館です。ここは都市公園であるため建蔽率は五%以内という条件で、公園の地下には約四三五台分の駐車場があります。中庭のアトリエは、お住まいになっていた場所からアトリエ部分だけを切り取らせていただき、移築しました。瓦も一枚ずつ外し、積み直しました。

■嘉麻市碓井琴平文化館(一九九六年)
碓井町の織田廣喜さんの美術館が核となっており、郷土館、平和祈念館、図書館からなる複合文化施設です。もともとは炭鉱で掘った土を盛っていたボタ山で、荒れ地のような場所に文化施設を建てるというプロジェクトでした。織田廣喜さんと直接打合せをしながらプロジェクトを進行しました。日本の模様、色、材料を意匠に使いたいという意向がありました。そこで外壁は地域で採れる材料である漆喰塗りとし、さらに漆喰塗りの壁が割れるのを防止するため、ステンレス製の目地棒を用いて青海波模様をデザインしています。展示する作品の中に大作があったため、それに合わせて部屋を作るという手法も使われました。

■めくばーる三輪(一九九七年)
コンペの要項では一棟の建物を建てるというものでしたが、大きなボリューム
はこの街には合わないと考えたため、分棟形式を提案しました。公共施設整備が遅れていたため、生涯学習施設、図書館、劇場、保健センター、老人福祉センターを一挙に建設するプロジェクトでした。駐車場は全て外側に配され、内側は昔ながらの広場を回復させると共に、いろいろな方向へ抜ける道をつくっています。地方において施設ヘアクセスは車が多く目的に対して行って帰るだけになってしまいがちですが、この場所には滞留してもらって回遊性を出すということを考えています。ビジネスや買い物に行く以外でみんなが顔を合わせる場所が集落でなくなってしまっていますから、この場所に行けば誰かに会えるという、みんなが安心して集まれる場所を作りました。

■風土に馴染む建築
父は独立してから、日本の誇り、地域の誇りととなるような建物をつくること
に生涯をささげました。風土に馴染む建築をつくるため、フラットルーフが主流の時代に、一貰して勾配屋根を用い、地域特有の材料を使ってきました。「風土とデザイン」を出版した際には航空写真で、上空からも風景との調和を確認しました。派手さはなくても、長持ちするものをつくりたいということで取り組んできました。その根底には戦争でものが無い時代に苦労した経験、勿休ないという精神があると思います。ものや材料だけでなく、職人さんの人生や努力なども大切な財産だと考えていました。建築は地域に愛され、大事にしてもらえないと長持ちしません。そういう意味で、長く地域の環境に貢献している建築を評価するJIA25年賞をいただいてきたことを喜んでいました。建築が目立つのではなく、人とか営みの背景になるような建築をつくる。その姿勢は父亡き後も現在の事務所に引き継がれています。

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抄録 わが建築の半生を省みる(親子対談)

『建築ー生き様のデザイン』(一九九八年発行) 徳岡昌克初めて、建築家・徳岡昌克ということで作品集をつくろうと思った。誰かにコメント、対談をと思ったが、構えるとうまく言えないので親子対談にしたらと思いついた。まず僕が一気に語って、次元が合うところから対談を始めたらどうだろう。

僕は一九三〇年四月横浜生まれ。父が竹中工務店の仕事をしていて、関東大震災で横浜へ行ったから、それで横浜で生まれた。父の故郷は滋賀県だから、東京のほうで名義人とかいろんな形で残るようにとだいぶ進められたけれど、親もみんなこちら(関西)に住んでいるからといって帰ってきたというわけで、それは私が三歳の時であった。

中学受験は大阪で受けたけれどうまくいかなくて、中学三年の時に敗戦になった。中学三年ぐらいの時に今の郷里に疎開のこともあって転校してきて、江若鉄道の一番奥の今津中学というのに入っ
た。これがまた年頃からしてショッキングだったのは、この時敗戦になったことだ。玉音放送も聞いた。動員されて、千拓で琵琶湖の内湖を干し上げて水田にするという仕事を軍隊と一緒にやっていた。どうも負けたらしいということで、みんな松林のところに集まってその玉音放送を聞いたが、当時のラジオのことだから雑音が入ってほとんどわからない。今、天皇陛下のお話があったが、総括するとどうも負けたらしい。

田舎の中学校だったけど比較的恵まれていたのは、戦時中の疎開等で優秀な先生がきていたんではないかということ。その中で高木大幹さんという先生がきていた。その先生は非常に英語がうまくて、King’s Englishをしゃべった。僕はその先生に可愛がってもらっていた。英語の力がついたのはその先生のおかげだ。

大学の時も何度か失敗して、父に迷惑をかけた。敗戦直後のこととて、食べるものがない不自由な時代を、父は大阪に単身で働いていて、祖父も母や姉も田畑仕事に精を出して私たちを贅ってくれた。昌克は勉強だけしておればよいと、父は不自由な生活の中で帰って来るときはいつも藁半紙の参考書を持って帰ってきてくれ、また母や姉のおかげで、田畑にもほとんど出たことがなかった。四年生の時に旧制高校を受けて失敗して五年生で三高を受けて失敗して、後期に受けた京都工業専門学校に入って勉強することになるけれども、でも建築をやるという決意は実は自分のものではなくて、父の願望であった。兄が亡くなって、父が建設業をやっているわけだから、父は京都工業専門学校に入れて建築の勉強をさせたかった。その理由は、当時、父が東京へ行ったとき、蔵前高専、今でいう東京工業大学になるのか、そこを出られた大内二男さんという竹中工務店の偉い人がいて、この方がとても立派な人だったと感心していた。やっぱり倅にはぜひ高等教育を受けさせたいというのが父の願望で、建築をやらせたかったようだ。母はひとり息子だから医者にしたかった。学校の先生には「徳岡君は実に品行方正、学術優等、英語もできるし、人の面倒見もよいから学校の先生になったらどうや」と言われたが、結局父の意見を聞いて建築を選んだ。学校へ入ってからは建築を選んで良かったと思うようになった。

それで京工専時代は白石陣三先生と福田朝生先生にずいぶんお世話になった。
人は成長するまでにたくさんの人にお世話になっているということでこのくどくど話をしている。何でも無いような言菜が非常に自分を捉えて、自己啓発のバックボーンになっているから、まあこういう話になるんだけれども。白石先生は非常に論客だった。まあ竹中に入ってからのことだけども、当時関西の論客といわれたのは、まず倉敷の浦辺鎮太郎さん、それと竹中の小川正さん、それにエ繊(当時は京都工業専門学校)の白石先生だったとか。白石先生には、こういったら申し訳ないけど、僕はかなり饒舌になって、理屈をいうようになった。非常に早口になって、ひと頃はもう人を説得しようと思うと、次々と言葉が出てきて相手をねじ伏せようとする悪い習慣になったのは白石先生のおかげかなと。

さて二年生ぐらいの時に、模写の対象になる建築を選んで先生に報告して、それから下図を描いて着色するという作業があった。自分は一生懸命選んで、大手ゼネコンのつくった建物を模写しようと思ったら、「いいけどこれはあまり良い建築ではないよ」と。良い建築か、そうでない建築かということを初めて教えてくれたのは白石先生だった。何も言わないで、これはあまり良い建築でないよと言われたんでショックを受けて、ぼくは図書館にこもって一生懸命に外国の雑誌を見て、やっと見つけのがオランダのデュドックの作品だった。デュドックの作品を持って行ったら先生が「ああ徳岡君これはいいよ、これをやりたまえ」と言われた。「これやったらパースにしてよろしい」といわれた、自分は少し道がついたかなというので、大変感謝をしている。自分の目でものを選ばせるように先生が自分を教育してくれたことは大変ありがたい。

学校は幸い恩賜の万年筆をもらってトップで卒業した。就職について特に情報があったわけでなく、父の進めるまま竹中の入社試験を受ける機会を得た。父は竹中の下請けだったからずいぶん頼んでくれたらしい。幸いとても良い成績で入ったとか。

スタートダッシュニ編集者の目にとまる三〇歳の時にアメリカヘ行きたいと思った。しかしなかなかスボンサーが見つからなくて五年かかった。この五年間で何が大事かというと自分というものはどんなものをつくれるかをアピールする必要があった。「日本鋼管鉄銅倉庫」とか「大阪見本市」とか「藤沢薬品工業中央研究所」とか、作品をアピールする必要があった。いろんな設計を精力的にやった。夜帰ってから一生懸命タイプを打った。アメリカに行く前に初めて『新建築」の絹集長であった馬場璋造さんから竹中に電話がかかってきたらしい。「関西大学幼稚園」は誰の作品か?と。関西大前のキャンバスに近いところにあったので村野藤吾の事務所かと雅測したが違っていたので問い合わせたようだった。竹中工務店とわかり、その担当者はということで、徳岡昌克につながった。これがもとで雑誌『新建築』に発表され、英文版にも掲載された。これが運命の扉を大きく開くことになった。

湖西荘(研修所)の話
琵琶湖の近くで清水があって、山のよく見えるところが欲しくてあちこちを探し回った。竹中で日頃若い人たちにズケズケと指導するから、罪滅ぱしの意味や。みんなに感謝を表したいと思い、昭和四七〜四八年頃から九州に行く五二年頃まで、また帰ってからの昭和五六〜五八年頃、自分の事務所を持ってしばらくの間、毎年竹中の若い人が中心で大勢来てくれた。

それとは別のグループで出江寛さん、太田隆信さん、狩野忠正さん、小角享さんなど、それに西村征一郎さん、ヘキサの中筋修さん、永田祐三さん、取締役になった宗田奎二さん、考えてみたらみんな一流の人やな。とりわけ家族ぐるみでお付き合いいただいて子供たちの建築教育についてお世話になった。柏木浩一さんや、和歌山大学の本多友常さん、それから今年大阪建築コンクール入選の苫名正さんも常辿やったな。とにかくおもしろいやないか。僕が竹中の課長をしている時の徳岡課には、強者が多かった。

突然、永田さんが竹中を辞めると言った。花房さんが部長だから僕には直接言わへん。僕は九州に行っていたし、出江さんも九州に行ってるときに辞めてしまった。だけど永田さんも出江さんも中筋さんも西村さんも全部いたとき、岩本博行さんがいつも言っていた。「お前は、きちがい部落の牢名主で、ややこしいのばかりおっても、よううまいこと乗ってるな」と言って。だってそんな人間しか徳岡課にはこない。みんな座布団一枚ずつ持って来よるから、だんだん座布団が高くなるが、座布団一枚外されたら崩れるもんな。ぼくは三八歳から直接お客さんに会ったことがない。もう課長やもん。座布団の上に乗っとった。それでそう言い回っていたけど危ないよな、よっぽど僕は向こう見ずの横済もんやったんやな。みんな偉い人やんか。そんな人の座布団に乗っかっていたら、そりゃ何とかの牢名主やで。でも難しいお客さんに当たって、自分自身で二、三日徹夜、夜業でスケッチをつくったこともある。でも大体は「I’m always available.」いつでも僕を利用してくださいと、部長にも言っておった。人間でも仕事でも断ったことがない。「I’m always open. I’m just for you.」と言うた。あんたのためにいるから何でも言ってくれやと。そしたら仕事がどんどん増えるし、仕事が増えたら人手のこともほっとかへん。どんどんややこしいことを言ってくるし、ややこしいやつはみんな能力があるやん。そしたら仕事出来るのは当たり前や。柏木さんとか本多さんというのは、第四部門の副部長をしている時の部下や。(後略)

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